日本ケミカル事件

日本ケミカル事件(最高裁判所第一小法廷平成30年7月19日判決)

原告が被告に対し,未払時間外,深夜割増賃金及び付加金の各支払を求めた事案。裁判所は,本件雇用契約における固定残業代の定めは有効で,その固定残業代が支給されていたものと認められるとした事例

1 事案の概要

X(原告,控訴人,被上告人)は,平成24年1月10日,保険調剤薬局の運営を主たる業務とするY(被告,被控訴人,上告人)と雇用契約を締結し,平成25年1月21日に薬剤師として勤務を開始し、平成26年3月31日退職した。原告は,業務手当の名目で支給されていた時間外労働に対する固定残業代が無効である等と主張し,被告に対し,時間外労働及び深夜労働に係る割増賃金並びにこれに対する遅延損害金,付加金の支払いを求めた。

1審は本件業務手当による時間外手当の支払を適法としたが、2審では、本件業務手当が何時間分の時間外手当にあたるのかがXに伝えられておらず,業務手当を上回る時間外手当が発生しているか否かをXが認識することができないので業務手当を時間外手当の支払とみなすことはできないとしてXの請求を認容した。これに対し,Yは上告した。

2 日本ケミカル事件判例のポイント

2.1 結論

雇用契約書、採用条件確認書、被告の賃金規程において、業務手当が時間外労働の対価として支払われる旨が記載されている。また,業務手当が想定する残業時間とXの実際の時間外労働等の状況は大きくかい離するものではない。よって,業務手当は,本件雇用契約において,時間外労働等に対する対価として支払われるものとされていたと認められるから,上記業務手当の支払をもって,時間外労働等に対する賃金の支払とみることができる。

2.2 理由

(1) 判断枠組

原審(控訴審)が示していた判断枠組み,すなわち,①固定残業代を上回る時間外手当の発生を労働者が認識できそれを請求できる仕組みが整備・実行され、②基本給と固定残業代のバランスが適切であり、③その他時間外手当の不払いや労働者の健康悪化の温床となる要因がないこと,といった固定残業代の有効要件は「必須のものとしているとは解されない」として採用しないことを明確にした。

その上で,「使用者は,労働者に対し,雇用契約に基づき,時間外労働等に対する対価として定額の手当を支払うことにより,同条の割増賃金の全部又は一部を支払うことができる。」「そして,雇用契約においてある手当が時間外労働等に対する対価として支払われるものとされているか否かは,雇用契約に係る契約書等の記載内容のほか,具体的事案に応じ,使用者の労働者に対する当該手当や割増賃金に関する説明の内容,労働者の実際の労働時間等の勤務状況などの事情を考慮して判断すべきである。」と判示した。

(2) 具体的あてはめ

「本件雇用契約に係る契約書及び採用条件確認書並びに上告人の賃金規程において,月々支払われる所定賃金のうち業務手当が時間外労働に対する対価として支払われる旨が記載されていた」

「上告人と被上告人以外の各従業員との間で作成された確認書にも,業務手当が時間外労働に対する対価として支払われる旨が記載されていたというのであるから,上告人の賃金体系においては,業務手当が時間外労働等に対する対価として支払われるものと位置付けられていたということができる」

「被上告人に支払われた業務手当は,1か月当たりの平均所定労働時間(157.3時間)を基に算定すると,約28時間分の時間外労働に対する割増賃金に相当するものであり,被上告人の実際の時間外労働等の状況(前記2⑵)と大きくかい離するものではない

「これらによれば,被上告人に支払われた業務手当は,本件雇用契約において,時間外労働等に対する対価として支払われるものとされていたと認められるから,上記業務手当の支払をもって,被上告人の時間外労働等に対する賃金の支払とみることができる」

2.3 解説

(1) これまでの裁判例

固定残業代が適法なものと認められるためには、

  1. 通常の労働時間の賃金と割増賃金にあたる部分を区別することができること、
  2. 割増賃金にあたる部分が労基法に基づき計算した額を下回らないこと

が必要となる。

これまでの裁判例では、基本給とほぼ同じ金額の手当を固定残業代とするなどバランスを欠き、月100時間近い長時間の時間外労働を容認することになる事案や、固定残業代が実態として時間外労働等の対価ではなく通常の賃金としての性質を有する事案で、固定残業代が割増賃金にあたるとはいえないとされてきた。また、時間外労働の時間数と時間外手当にあたる金額が明示され、さらに固定残業代を超える残業が行われた場合は上乗せして残業手当を支給する旨もあらかじめ明らかにされていなければならないとした裁判例もあった。

このような流れを受けて、本件の2審判決は、①固定残業代を上回る時間外手当の発生を労働者が認識できそれを請求できる仕組みが整備・実行され、②基本給と固定残業代のバランスが適切であり、③その他時間外手当の不払いや労働者の健康悪化の温床となる要因がない場合に限り、固定残業代を時間外手当の支払いとみなすことができるとした。

(2) 本判決の意味

これに対し、本判決は、上記2審判決の要件は「必須ではない」とした上で,ある手当が時間外労働等の対価といえるか否かは、契約書等の記載内容、使用者の説明内容、実際の勤務状況等の事情を考慮して判断されるとし、本件では、①労働契約上業務手当が時間外労働等の対価として支払われるものと位置づけられ、②その支払額が実際の時間外労働等の状況と大きく乖離していないことから、時間外労働等に対する対価と認められるとした。

これは、最高裁として、固定残業代の割増賃金該当性について、

  1. 契約書の記載や使用者の説明等に基づく労働契約上の対価としての位置づけ、および
  2. 実際に勤務状況に照らした手当と実態との関連性・近接性

を要件とする判断枠組みを提示したようにも読める。

このような判断枠組みによれば、契約書への記載や使用者の説明が不十分な場合は①契約上の位置づけ要件を欠き、契約書への記載が十分あっても,手当の性質や金額が時間外労働等の実態と関連・近接していない場合には②実態要件を欠くとして、固定残業代の支払が割増賃金の支払いと認められないと解されるとも思われる。

ただ,筆者としては,②の実態まで要件であると解するのは論理的ではなく不当であると考える。なぜならば,雇用契約書や賃金規程において,ある手当が(仮に発生した場合の)時間外労働の対価として支払うことを明示され労働契約の内容となっている以上,仮に実態との乖離があったとしても,それは労働契約の内容に影響を及ぼさないはずだからである。例えば,45時間分の時間外労働相当の固定残業代を雇用契約で明確に定めた場合,契約後,使用者の残業抑止策によって実際には残業が20時間程度に留まったとした場合,本件最高裁の判断枠組みによれば「実態との乖離がある」として,事後的に無効とされることにもなりかねない。契約後の事情によって契約時の合意内容を判断することは,論理的ではないのみならず,契約の予測可能性を奪い妥当ではないのである。

なお、その後の裁判官による評釈論文や協議会において、上記②の支払額と実際の勤務状況との乖離していない,という点は,必須の要件ではないことを明らかにされている。

最高裁調査官による本判例の解説
「雇用契約に基づいて支払われる手当契約の内容がどのようなものであるかが,時間外労働等に対する対価として支払われるものとされているか否かは,契約の内容によって定まり,その他に何らかの独立の要件を必要とするものではないことを明らかにするとともに,は,契約書等の記載内容のほか, 具体的事案に応じ,使用者の労働者に対する当該手当や割増賃金に関する説明の内容,労働者の実際の労働時間等の勤務状況などの事情を考慮して総合的に判断すべきことを明らかにしたものといえる。一般に,契約の内容の認定を行うにあたり,契約書等の記載内容に加え,締結時やその前後の当事者の言動等を総合的に考慮することは通常行われていると思われる。雇用契約についても基本的に異なるところはなく,契約書等の記載内容が大きな手がかりとなるものの,契約書等の記載内容からは当該手当の趣旨が一義的に明確でない場合であっても,毎月の支給時には当該手当が何時間分の残業代に相当するものであるかなどの事項を説明している場合には時間外労働等に対する対価として支払われるものと認められる場合もあり得るところであるし,そのほかにも, 当該手当を受領している労働者の勤務状況や業務内容等から, 当該手当は時間外労働等に対する対価として支払われるものと推認されるか,逆に勤務状況等から別の趣旨で支払われるものと推認されるかなどの事情を考慮して判断することになることを示したものと思われる。上記の判示は,このような趣旨であるから,契約書等の記載内容,説明内容,実際の勤務状況等がそれぞれ必須の要件や要素となることを示したものとは解されないであろう。」(ジュリスト2532号P79,最高裁調査官池原桃子)。
東京地裁の裁判官の見解
「固定残業代という記載が雇用契約書等に明示されているという場合でありましても,対価性の検討に当たって,固定残業代の額に相当する労働時間と実際の労働時間との乖離のみが重要な事情となる事は考えがたいと思われます。」「日本ケミカル事件において示された考慮要件は,契約内容を認定するに当たって用いられる一般的な判断手法を,同事件の事案に即した形で表現し直したものと考えられます。労働事件でも,一般的にその契約の解釈が問題になるような場合については,同様の判断手法で双方当事者から主張,立証を頂いているかと思いますので,そこは固定残業代の場合でも基本的に変わらないかと考えております。」(労働判例1217号P24~25 東京地裁労働部と東京三弁護士会の協議会)。

3 日本ケミカル事件の関連情報

3.1判決情報

  • 裁判長:木澤 克之,池上 政幸,小池 裕,山口 厚,深山 卓也
  • 掲載誌:ジュリスト1523号4頁

3.2 関連裁判例

  • テックジャパン事件(最高裁一小判平24.3.8 労判1060号5頁)
  • アクティリンク事件(東京地判平24.8.24 労判1058号5頁)
  • ザ・ウインザー・ホテルズインターナショナル事件(札幌高判平24.10.19 労判1064号37頁)
  • イーライフ事件(東京地判平25.2.28 労判1074号47頁)
  • 泉レストラン事件(東京地判平26.8.26 労判1103号86頁)
  • マーケティングインフォメーションコミュニティ事件(東京高判平26.11.26 労判1110号46頁)

3.3 参考記事

残業代は支払済みの給与に含まれているとの反論

 

主文

原判決中上告人敗訴部分を破棄する。
前項の部分につき,本件を東京高等裁判所に差し戻す。

理由

上告代理人渡邉宙,同折田純一の上告受理申立て理由(ただし,排除されたものを除く。)について

1 本件は,上告人に雇用され,薬剤師として勤務していた被上告人が,上告人に対し,時間外労働,休日労働及び深夜労働(以下「時間外労働等」という。)に対する賃金並びに付加金等の支払を求める事案である。

2 原審の確定した事実関係等の概要は,次のとおりである。

⑴ 被上告人は,平成24年11月10日,保険調剤薬局の運営を主たる業務とする上告人との間で,次の内容の雇用契約(以下「本件雇用契約」という。)を締結した。

業務内容 薬剤師(調剤業務全般及び服薬指導等)

就業時間 月曜日から水曜日まで及び金曜日は午前9時から午後7時30分まで(休憩時間は午後1時から午後3時30分までの150分)木曜日及び土曜日は午前9時から午後1時まで

休日及び休暇 日曜日,祝祭日,夏季3日,年末年始(12月31日から1月3日まで)及び年次有給休暇

賃金(月額) 基本給46万1500円,業務手当10万1000円

支払時期 毎月10日締め25日支払

⑵ 被上告人は,平成25年1月21日から同26年3月31日までの間,上告人が運営する薬局において,薬剤師として勤務し,上記⑴の基本給及び業務手当の支払を受けた。

被上告人の1か月当たりの平均所定労働時間は157.3時間であり,この間の被上告人の時間外労働等の時間を賃金の計算期間である1か月間ごとにみると,全15回のうち30時間以上が3回,20時間未満が2回であり,その余の10回は20時間台であった。

⑶ア 本件雇用契約に係る契約書には,賃金について「月額562,500円(残業手当含む)」,「給与明細書表示(月額給与461,500円 業務手当101,000円)」との記載があった。

イ 本件雇用契約に係る採用条件確認書には,「月額給与 461,500」,「業務手当 101,000 みなし時間外手当」,「時間外勤務手当の取り扱い 年収に見込み残業代を含む」,「時間外手当は,みなし残業時間を超えた場合はこの限りではない」との記載があった。

ウ 上告人の賃金規程には,「業務手当は,一賃金支払い期において時間外労働があったものとみなして,時間手当の代わりとして支給する。」との記載があった。

⑷ 上告人と被上告人以外の各従業員との間で作成された確認書には,業務手当月額として確定金額の記載があり,また,「業務手当は,固定時間外労働賃金(時間外労働30時間分)として毎月支給します。一賃金計算期間における時間外労働がその時間に満たない場合であっても全額支給します。」等の記載があった。

⑸ 上告人は,タイムカードを用いて従業員の労働時間を管理していたが,タイムカードに打刻されるのは出勤時刻と退勤時刻のみであった。被上告人は,平成25年2月3日以降は,休憩時間に30分間業務に従事していたが,これについてはタイムカードによる管理がされていなかった。また,上告人が被上告人に交付した毎月の給与支給明細書には,時間外労働時間や時給単価を記載する欄があったが,これらの欄はほぼ全ての月において空欄であった。

3 原審は,上記事実関係等の下において,要旨次のとおり判断して,被上告人の賃金及び付加金の請求を一部認容した。

⑴ いわゆる定額残業代の支払を法定の時間外手当の全部又は一部の支払とみなすことができるのは,定額残業代を上回る金額の時間外手当が法律上発生した場合にその事実を労働者が認識して直ちに支払を請求することができる仕組み(発生していない場合にはそのことを労働者が認識することができる仕組み)が備わっており,これらの仕組みが雇用主により誠実に実行されているほか,基本給と定額残業代の金額のバランスが適切であり,その他法定の時間外手当の不払や長時間労働による健康状態の悪化など労働者の福祉を損なう出来事の温床となる要因がない場合に限られる

⑵ 本件では,業務手当が何時間分の時間外手当に当たるのかが被上告人に伝えられておらず,休憩時間中の労働時間を管理し,調査する仕組みがないため上告人が被上告人の時間外労働の合計時間を測定することができないこと等から,業務手当を上回る時間外手当が発生しているか否かを被上告人が認識することができないものであり,業務手当の支払を法定の時間外手当の全部又は一部の支払とみなすことはできない。

4 しかしながら,原審の上記判断は是認することができない。その理由は,次のとおりである。

⑴ 労働基準法37条が時間外労働等について割増賃金を支払うべきことを使用者に義務付けているのは,使用者に割増賃金を支払わせることによって,時間外労働等を抑制し,もって労働時間に関する同法の規定を遵守させるとともに,労働者への補償を行おうとする趣旨によるものであると解される(最高裁昭和44年(行ツ)第26号同47年4月6日第一小法廷判決・民集26巻3号397頁,最高裁平成28年(受)第222号同29年7月7日第二小法廷判決・裁判集民事256号31頁参照)。また,割増賃金の算定方法は,同条並びに政令及び厚生労働省令の関係規定(以下,これらの規定を「労働基準法37条等」という。)に具体的に定められているところ,同条は,労働基準法37条等に定められた方法により算定された額を下回らない額の割増賃金を支払うことを義務付けるにとどまるものと解され,労働者に支払われる基本給や諸手当にあらかじめ含めることにより割増賃金を支払うという方法自体が直ちに同条に反するものではなく(前掲最高裁第二小法廷判決参照),使用者は,労働者に対し,雇用契約に基づき,時間外労働等に対する対価として定額の手当を支払うことにより,同条の割増賃金の全部又は一部を支払うことができる

そして,雇用契約においてある手当が時間外労働等に対する対価として支払われるものとされているか否かは,雇用契約に係る契約書等の記載内容のほか,具体的事案に応じ,使用者の労働者に対する当該手当や割増賃金に関する説明の内容,労働者の実際の労働時間等の勤務状況などの事情を考慮して判断すべきである

しかし,労働基準法37条や他の労働関係法令が,当該手当の支払によって割増賃金の全部又は一部を支払ったものといえるために,前記3⑴のとおり原審が判示するような事情が認められることを必須のものとしているとは解されない。

⑵ 前記事実関係等によれば,本件雇用契約に係る契約書及び採用条件確認書並びに上告人の賃金規程において,月々支払われる所定賃金のうち業務手当が時間外労働に対する対価として支払われる旨が記載されていたというのである。

また,上告人と被上告人以外の各従業員との間で作成された確認書にも,業務手当が時間外労働に対する対価として支払われる旨が記載されていたというのであるから,上告人の賃金体系においては,業務手当が時間外労働等に対する対価として支払われるものと位置付けられていたということができる。

さらに,被上告人に支払われた業務手当は,1か月当たりの平均所定労働時間(157.3時間)を基に算定すると,約28時間分の時間外労働に対する割増賃金に相当するものであり,被上告人の実際の時間外労働等の状況(前記2⑵)と大きくかい離するものではない

これらによれば,被上告人に支払われた業務手当は,本件雇用契約において,時間外労働等に対する対価として支払われるものとされていたと認められるから,上記業務手当の支払をもって,被上告人の時間外労働等に対する賃金の支払とみることができる。

原審が摘示する上告人による労働時間の管理状況等の事情は,以上の判断を妨げるものではない。

したがって,上記業務手当の支払により被上告人に対して労働基準法37条の割増賃金が支払われたということができないとした原審の判断には,割増賃金に関する法令の解釈適用を誤った違法がある。

5 以上によれば,原審の判断には判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反がある。論旨はこの趣旨をいうものとして理由があり,原判決中上告人敗訴部分は破棄を免れない。そして,被上告人に支払われるべき賃金の額,付加金の支払を命ずることの当否及びその額等について更に審理を尽くさせるため,上記部分につき本件を原審に差し戻すこととする。

よって,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり判決する。

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