退職届 無効取消

提出させた退職届が取り消されるか?

社長
当社は、酒類販売を業とする会社です。当社の会計課に、経理担当者として勤務している社員Yがいたのですが、ミスや不正行為が発覚しました。当社としては、Xに対し懲戒解雇処分を行いたいと考えましたが、Xの将来を考え任意退職を行うよう勧奨しました。これに対し、Xは身に覚えがないなどと不合理な弁解に終始するため、当社人事部長Aは「早く退職届を出せ。出さなければ懲戒解雇にする。」「懲戒解雇になれば退職金は出ないが,退職届を提出すれば退職金も支払う。」と告げ説得したところ、Yは退職届を提出し、退職金等を受領しました。しかし、その後、Yは弁護士を立てて、退職届は脅されて提出したので無効であると主張し、職場復帰、慰謝料の支払などを請求してきました。当社はかかるYの請求に応じなければならないのでしょうか?
弁護士吉村雄二郎
懲戒解雇理由がないにもかわらずその旨ほのめかして退職願を出すように迫った場合、錯誤又は脅迫を理由に,退職の意思表示が無効又は取り消される可能性があります。
労働者の退職届提出に意思表示の瑕疵があれば、無効・取り消しが主張可能
退職勧奨の際は、言動に気をつける必要がる
本記事の位置付け・関連記事
退職届を会社の承諾前に撤回する場合→「いつまでなら退職届の撤回はできるのか?」
会社に脅されて提出した退職届を取り消す場合→この記事

1 退職の意思表示の無効・取り消しができるか?

そもそも退職の意思表示ではない

退職の申し出は、労働契約の終了という重大な効果をもたらすものであるため、確定的な意思表示であることが必要であるとされます。

例えば、使用者の退職提案に対して「グッド・アイディアだ」と応じたからといって、退職に同意したものとはいえないとした例(東京地判平9・2・4)、飲食店アルバイトが翌月のシフト希望を出さなかったからといって退職の意思表示とは言えないとした例(東京高判令4・7・7)があります。

民法上の取消原因

上記は退職の意思表示と解釈できるかどうかの問題ですが、退職届を作成して提出した場合など、明らかに退職の意思表示とみられる状況であっても、民法上、「意思表示の瑕疵」があるとして取り消される場合があります。民法では、錯誤、強迫、詐欺による意思表示は瑕疵のあるものとして取り消すことができるとしています。

心裡留保

また,真実は退職する意思がないにもかかわらず,使用者に対する抗議の手段等として退職届を出すような場合(心裡留保民法93条本文)に,使用者がその労働者の真意を知りうる状態であった場合(本気ではないことを分かっている場合)は取り消すことができます(民法93条但書)。

錯誤

例えば店舗の閉鎖を理由として退職の意思表示をしたのに実際には新店舗の開店計画を秘していた場合。新店舗のことを知っていれば退職に意思表示をしなかった場合は錯誤により退職の意思表示を取り消すことができます(民法95条1項)。

詐欺・強迫

例えば、懲戒解雇を出来る状況ではないにもかかわらず、懲戒解雇があり得ることを告げて退職を勧め、労働者は懲戒解雇を受けることを恐れてそれを避けるために退職の意思表示をした場合。退職勧奨は害悪の告知であり、このような害悪の告知の結果なされた退職の意思表示は、強迫によるものとしては取り消すことができます(民法96条)。

自由な意思の欠如論

上記のような「意思表示の瑕疵」に該当しなくても、自由な意思による退職の意思表示ではないとして、その意思表示を無効とすることがあります。

これは、民法や労働基準法、労働契約法には「自由な意思による意思表示」についての明確な規定はないものの、退職の場面だけでなく、不利益変更の合意など、労働契約の様々な場面で考慮されているものです。

退職に関する前例としては、妊娠中の退職合意について、均等法の趣旨に照らして自由な意思に基づいて合意したと認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するかを慎重に判断すべきとして、合意退職を否定したものがあります(東京地裁立川支判平29・1・31)。

「自由な意思」ではない場合とは、明確ではないこともありますが、判断に必要な十分な情報が提供されているかどうかが重要なポイントです。特に労働関係では、使用者には丁寧な情報提供が求められています。

2 具体的ケース

強迫による退職が問題となった例

本当は解雇事由に該当する事実もないのに解雇をちらつかせて畏怖心を生じさせ,従業員に退職の意思表示をさせる場合は,退職の意思表示は強迫によるものとして取り消されます(民法96条)。

澤井商店事件(大阪地決平元.3.27労判536-16)・・・強迫肯定
経理担当者として勤務していた女性社員に対し、懲戒解雇事由に該当する事実がないにもかかわらず「退職願いを提出しなければ懲戒解雇にする」「懲戒解雇になれば退職金も出ないが,退職願いを提出すれば退職金も支払う」などと告げ、最終的には女性社員が退職願いを提出し,退職金等を受領した事案で、裁判所は「使用者が労働者に対し退職を勧告するに当たり当該労働者につき真に懲戒解雇に相当する事由が存する場合はともかく、そのような事由が存在しないにもかかわらず、懲戒解雇の有り得ることやそれに伴う不利益を告げることは労働者を畏怖させるに足る違法な害悪の告知であるといわざるを得ず、かかる害悪の告知の結果なされた退職願いは強迫による意思表示として取消し得る」として、強迫による取り消しを認めた。
ソニー〔早期割増退職金〕事件(東京地判平14.4.9労判829-56)・・・強迫否定
「懲戒解雇に相当する事由が存在しないにもかかわらず,懲戒解雇があり得ることを告げることは,労働者を畏怖させるに足りる違法な害悪の告知であるから,このような害悪の告知の結果なされた退職の意思表示は,強迫によるものとして,取り消しうるものと解される」と判示しつつ、結論としては懲戒解雇に値する事由(他社への二重就業と勤務記録の不正入力)があったので、違法な害悪の告知(強迫)はなかったと判断した。

その他の裁判例
ニシムラ事件(大阪地決昭和61.10.17労判486号83頁)
損害保険リサーチ事件(旭川地決平成6 .5.10労判675号72頁)
旭光学事件(東京地判昭和42.12.20判時509号22頁)・・・長時間にわたる執拗な強要に基づく辞職願の提出
学校法人白頭学院事件(大阪地判平成9.8.29労判725号40頁)・・・不倫行為を理由に暴行を加えて辞職を迫った

錯誤による退職が問題となった例

解雇もしくは懲戒解雇事由が存在しないのに,解雇もしくは懲戒解雇になると誤信して行った退職の意思表示は,錯誤に基づくものとして取り消すことができます(民法95条1項)。

昭和電線電続事件(横浜地川崎支判平成16.5.28労判878号40頁)・・・錯誤肯定
出向先での勤務態度等が悪かった社員について、会社は「解雇せざるを得ないが自己都合退職をする場合には退職金を加算する(給与
3カ月分)」と説明し退職勧奨をした。社員は退職手続申請書を提出し退職金1020万円を受領したが、その後、退職の意思表示を取り消した事案。裁判所は「原告が本件退職合意承諾の意思表示をした時点で,原告には解雇事由は存在せず,したがって原告が被告から解雇処分を受けるべき理由がなかったのに,原告はAの本件退職勧奨等により,被告が原告を解雇処分に及ぶことが確実であり,これを避けるためには自己都合退職をする以外に方法がなく,退職願を提出しなければ解雇処分にされると誤信した結果,本件退職合意承諾の意思表示をしたと認めるのが相当であるから,本件退職合意承諾の意思表示にはその動機に錯誤があった」と判示し、退職の意思表示は無効であったと判断した。
ネスレ日本事件(東京高判平13.9.12労判817-46)・・・錯誤否定
傷害事件に関与した社員について、懲戒処分が検討されていることを説明し退職勧奨をしたところ社員は退職願を提出した。その後、社員は退職願の撤回を申し出た事案。社員は退職願を出す前に、自己都合の退職金や健康保険の取扱いなど退職条件の確認をしていたことや労働組合の役員経験が長いという事情などが考慮され,最終的には利害得失を自分なりに判断して退職した,すなわち錯誤はなかったと裁判所は判断した。

その他の裁判例
学校法人徳心学園事件(横浜地決平成7.11.8労判701号70頁)
ヤマハリビングテック事件(大阪地決平成11.5.26労判772号82頁)
昭和電線電續事件(横浜地川崎支判平成16.5.28労判878号40頁)
富士ゼロックス事件(東京地判平成23.3.30労判1028号5頁)
慶應義塾(シックハウス)事件(東京高判平成24.10.18労判1065号24頁)・・・業務上の疾病により勤務を継続することができなかったのに,私傷病によるものと誤信してなされた退職の意思表示は錯誤に当たるとした

心裡留保による退職が問題となった例

昭和女子大学事件(東京地判平成4.12.21労判623号36頁)・・・心裡留保肯定
学長より謝罪しないと大変なことになる、勤務を続けたいならそれなりの文書を出すようにいわれた大学教授が,退職するつもりがないのに反省の意を強調するために,要請されて退職願を提出した。もっとも、退職する意思がないことは明確に表明され続け,大学もそれを承知していたケースで,裁判所は心裡留保により無効とした。
スガツネ工業事件(東京地判平22.6.29判時2092-155)・・・心裡留保否定
本社から物流センターへの配転命令を受けたが,これを拒否し,社内で「退職させて戴くことになりました」とのメールを社長や総務人事部長を含む200名の社員に送信したケースで、「本件メールを受信した者は誰でも『原告は被告を退職する意思を有しており,本件配転命令が撤回されなければ,敢然と被告を退職するであろう』と考えたと認められ」心裡留保は成立しないと判断した。

自由な意思の欠如が問題となった例

栃木県事件(宇都宮地判令5・3・29)…自由な意思なし、退職届無効
双極性感情障害による傷病休暇中に退職願を提出した職員が、その退職願が無効であるとして、辞職承認処分の取消しを求めた事件。休暇中の面談で、部長らは休みが長期化することへの懸念や、復職の困難性、退職の選択肢を示唆しました。これにより、職員はうつ状態の悪化もあり、適切な判断を下すことが困難であったと判示されました。職員は復職を希望していましたが、熟考することなく退職願を提出しました。この状況を踏まえ、宇都宮地裁は職員の退職願は「自由な意思」によるものとは言えず、無効であると判断しました。

3 退職届の無効・取り消しを主張されないようにするためには?

ポイントは,退職の意思表示が本人の自由な意思に基づいて行われたといえる状況が確保されていたかどうかにあります。

解雇が無効になる可能性が高い場合は「退職しなければ解雇になる」と言わない

例えば、解雇事由に該当する事実がない場合や、解雇事由に該当したとしても明らかに社会的相当性が認められない場合は、客観的に解雇が無効になる可能性が高いといえます。この場合に「退職しなければ解雇になる」などという言動を行った場合は、強迫や錯誤により退職の意思表示が取り消される可能性が高まります。

よって、この場合は「解雇になる」という確定的な言動は行わずに「何らかの重い処分を検討している」程度に留めるべきでしょう。

これに対して、客観的に解雇事由に該当し、裁判例などと比較しても社会的相当性が認められる可能性が高い場合は、会社としては解雇は有効であると判断していることを告げて退職勧奨を行うことも可能です。

例えば、「会社としては,解雇自由に該当する事実関係を証拠に基づいて確認し,解雇に合理的理由社会的相当性があると判断しました。従って、今後解雇について手続きを進めていく予定です。これに対し、あなたが争うのは自由です。ただし、あなたが解雇について異議があっても、敢えて争わずに退職届を出すならば,会社はそれを受け取るつもりです。また、退職届を出すのであれば・・・という条件をつけます。」などと,本人の任意の判断を促すことは可能です。

退職届を出すか否か、判断に必要な情報を提供する

退職するか否か、判断に必要な十分な情報が提供されていない場合は、退職届を出す「自由な意思」がないとして無効となる場合があります。

例えば、退職の選択をした場合の具体的な効果(退職日、退職金、失業保険など)、退職以外の選択肢(休職、休職延長、その他休暇制度の有無など)などを説明することがポイントとなります。

退職届を出すメリット(条件)を提示する

退職届を提出した場合に得られる条件を提示し、自主退職のメリットを労働者へ伝えることは、労働者の任意性を確保することにつながりますし,労働者から強迫や錯誤による取り消しを主張されるリスクは軽減されます。

この場合、メリットデメリットを考慮して決定したということになれば、脅されたり誤解したのではなく、自分で冷静に利害得失を考えて決定したといことになるからです。

提示する条件は、一定の解決金(賃金数ヶ月分)や上乗せ退職金を示す、再就職支援策を提示する、離職票上の離職理由を「会社都合」にする、問題行為によって会社に損害が発生していたとしても損害賠償を免除するなどがあります。

弁護士吉村雄二郎
解決金の水準はケースバイケースですが、私の経験からは、解雇が有効になる可能性が高い(80~100%)の場合は賃金1ヶ月分程度、50~70%の場合は賃金2~3ヶ月分程度、50%以下の場合は3~6ヶ月分程度が相場です。

合意退職書を作成する

できるだけ合意による退職という形で解決をした方がよいでしょう。

具体的には、退職を勧奨する理由を説明した上で、

  1. パワーハラスメントや名誉毀損といわれないように注意すること
  2. 本人を強迫したり、誤信させたりするような言動をとらないこと
  3. 本人が拒絶の意思表示をしている場合に、執拗な勧奨をしないこと

に注意が必要です。

退職勧奨に応じてもらうために、労働者側に慰労金等の金銭支給、残有給休暇の買い取り等を提案することもあります。

従業員が退職勧奨に応じて退職することとなった場合、退職届の提出だけでもよいですが、より退職を確実なものとするために、退職の条件と合意内容を明確にした退職合意書を締結することをお勧めします。

退職勧奨については、こちらの記事も参考にしてください。

退職勧奨については

経営者必見、退職勧奨の進め方(書式あり)

退職合意書

 ○△商事株式会社(以下「甲」という。)と甲野太郎(以下「乙」という。)は、以下の条件による甲野の退職につき合意した。
1 乙は、甲を、2021年12月31日付で、退職する。
2 甲は、乙に対して、慰労金として金□□万円を支払う義務があることを確認する。
3 甲は、前項の慰労金を、乙が本合意書上の全ての義務を履行することを条件に、2022年1月15日限り、乙の給与振込先銀行口座に支払う。なお、振込手数料は甲の負担とする。
4 乙は、甲が提示した退職勧奨の条件を十分に理解し、任意に退職することを確認する。
5 乙は、甲が指定する後任者への引継ぎを、責任をもって2021年11月30までに終了させる。
6 乙は、甲が甲に貸与した従業員証、入館証、社章、制服、その他会社の所有物の全てを2021年11月30日までに甲に返還する。
7 甲及び乙は、本合意書に定める事項のほか、一切の債権債務がないことを、相互に確認する。
この合意を証するため,本書2通を作成し,甲乙両各署名(記名)押印の上,各その1通ずつを保有する。
2021年11月31日

住所 東京都千代田区神田・・・
○△商事株式会社
代表取締役 ○野△太郎 印

住所 東京都墨田区・・・・・・
甲野 太郎       印

参考裁判例

錯誤に関する裁判例

ジョナサンほか1社事件(大阪地判平18.10.26労判932-39)錯誤肯定

店舗の閉鎖を理由として退職合意をしたとしても,新店舗の開店計画を秘していた場合には,店舗閉鎖は偽装であり,その場合の「退職合意の意思表示は,詐欺を理由とする取消により無効,もしくは,要素の錯誤により無効と判断した。

昭和電線電続事件(横浜地川崎支判平成16.5.28労判878号40頁)錯誤肯定

(事案の概要)
出向先を何度か変わっていたが出向先から態度に問題があるとして受入れを拒否されたため,他に斡旋する職場がなくなったので,退職してもらう選択肢しかなく,自ら退職すれば規定退職金に3カ月分の給与を加算すること,退職しなければ,「勤務成績著しく悪く改俊の見込みなしと認められたとき」により解雇手続をとることを説示されたため,退職願を提出し退職金の振込みを受けた。しかし、約2カ月後に,退職の合意に錯誤があったとして,地位確認の訴えを提起した。

(裁判所の判断)
退職勧奨は,雇用契約解約の申入れとともに,これに応じない場合は,解雇するとの「条件付き解雇」であるとし,本件「条件付解雇」は勤務不良を理由とする解雇事由が存在するとはいえず,本件は,解雇理由がないのに,退職勧奨により会社が解雇することは確実であ
り,これを避けるためには自己都合退職する以外に方法がなく,退職願を提出しなければ解雇されると誤信した結果,本件合意退職の意思表示をしたと認めるのが相当であるとして「本件退職合意承諾の意思表示にはその動機に錯誤があった」とし,会社は,原告が解雇を避けるために退職願を提出したことを認識していたのであるから,原告の動機は黙示のうちに表示されていたと認められ,さらに,「解雇事由が存在しないことを知っていれば,本件退職合意の意思表示をしなかったであろうし,この理は一般人が原告の立場に立った場合も同様であると認められるから,原告の本件退職合意の意思表示には法律行為の要素に錯誤があった」として退職合意を無効と判断した。

駸々堂事件(大阪高判平10.7.22労判748-98最判平11.4.27労判761-15)錯誤肯定

(事案の概要)
期間の定めのない雇用契約を締結していた定時社員に対し,雇用期間を6カ月とし時給を減額するなど,従前の労働条件を変更する新たな契約(新契約)の申し込みを行ったところ,当該定時社員は,他の定時社員と同様新契約に署名し,契約を1度更新したものの,心不全のため約4カ月間欠勤したところ,期間満了を理由に雇用契約の終了を通知されたため,新契約は錯誤により無効であるとして争った

(裁判所の判断)
新契約に応じなければ,(会社)との雇用関係を維持できず,退職せざるを得ないものと考えて新社員契約を締結したものと認められ,・・・(この)意思表示は動機に錯誤があり,右動機は黙示的に表示され,(会社)もこれを知っていたものと言うべきであるから,契約の内容になったものと言うことができ,そして,その錯誤は,新契約による労働条件が…極めて不利な内容(雇用期間6カ月,時給の切り下げ,労働時間の低減,賞与不支給)で(あることに)照らすと,…右錯誤は要素の錯誤に当たる」として無効と判断した。

東武スポーツ[宮の森カントリー倶楽部・労働条件変更]事件(宇都宮地判平19.2.1労判937-80)錯誤肯定

(事案の概要及び裁判所の判断)
期間の定めのない正社員のキャディを1年契約の期間雇用とし,賃金も大幅に減額となる新契約を締結した事案について,「契約書を提出すれば,…残って働くことができるけれども,契約書を提出しなければ・・・働くことはできないと考えて,契約書を提出し,本件労働条件変更を同意するに至ったと認めるのが相当である。しかし…契約書を提出しなければ働くことができなくなる合理的理由はまったくなく…キャディらには誤信がある。」とし,誤信は動機の錯誤であるが,「その動機は黙示に表示され,(会社も)知っていたといえる。
そして,本件労働条件変更の内容が,…期間の定めのない契約から有期契約への変更という極めて不利な内容であり,これらに対する何らかの見返りあるいは代償措置を伴わないものであったことに照らすと,…キャディらは,上記錯誤がなければ本件労働条件の変更の同意に応じることはなかったといえるから,上記錯誤は要素の錯誤に当たる」と判断した。

ヴァリグ事件(東京地判平11.12.27労経速1752-3)錯誤否定

(事案の概要)
就業規則上,定年年齢が65歳であった航空会社の日本支社において,経営悪化のため60歳以上のものを
対象に人員削減をするとともに,定年年齢を60歳に切り下げることとし,当時60歳に達していた管理職に対し退職勧奨をしたところ,同人から退職願が提出されたが,同人は,定年年齢を65歳から60歳に切り下げる就業規則の変更は不利益変更で無効であるのに,これを有効と誤信した錯誤があるとして,退職の申し出は無効であると争った事案

(裁判所の判断)
退職勧奨に応じたのは,「会社が60歳以上の従業員を削減対象とし,自らがこれに該当する以上,退職はやむ得ないものと孝える一方,会社の危機的経営状況からすれば,……いつまで退職金を支払える経営状況でいられるか分からないという懸念が働いたためであり……就業規則変更が法的に有効であるとの判断が本件承諾の主たる動機を形成したものとは認められ(ず)黙示的に表示されたということもできない」として,民法95条の錯誤には該当しないと判断した。

箱根登山鉄道事件(東京高判平17.9.29労判903-17)錯誤否定

(事案の概要)
労働条件の不利益な変更を含む会社再建計画が労働協約により定められたため,退職の意思表示をした労働者(組合員)が,当該労働協約は規範的効力を持たない無効なものであるから,退職の意思表示は,無効な同計画を有効と信じたためになされたもので錯誤により無効であると争った事案

(裁判所の判断)
「控訴人らは,本件会社再建計画を認識した上で,その勤務条件の下では会社との雇用関係の継続を望まないとして任意に退職の意思表示をした(退職届を提出した)ものである」から,錯誤に基づくと言うこともできないと判断した。

日本旅行事件(東京地判平19.12.14労判954.92)錯誤否定

(事案の概要)
55歳の役職定年の通用にあたり,55歳で関連会社へ移籍するとの取り扱いがあったところ,関連会社への移籍を断り,退職届を提出して退職したが,その際役職定年制を誤解して退職しなければならないものと誤信して退職届を提出したので,退職は錯誤により無効であると主張した事案

(裁判所の判断)
「役職定年に達して移籍に応じない場合には退職せざるを得ないものと誤信していた可能性は否定することができない」が,就業規則に定年は60歳であることが明規されており,「労使協定にも,役職定年に伴い職位を外れた後は,移籍とプロフェッショナル職として被告(会社)にとどまることとの二つの場合があることが明規されて(おり),…人事担当者に質問することなどで自らの誤信を解く機会は十分にあった」から,原告の錯誤には「重大な過失があった」として錯誤無効は主張できないと判断した。

強迫に関する裁判例

二シムラ事件(大阪地決昭61.10.17労判486-83)強迫肯定

(事案の概要)
従前会社の保管金で来客用のお茶やインスタントコーヒーを買いおくことはもとより,従業員が一服時にこれを飲むほか,時におやつを買って食することが長年行われていたが,会社が特にこれを許可したことはな
かった反面,従前このことが問題とされていたこともなかったところ,会社が突如2名の女性職員を呼びだし,「100円でも横領だ,責任とれ,告訴や懲戒解雇ということになれば困るだろう。任意に退職するなら次の就職先からの問い合わせや社員達には家庭の事情で辞めたことにしてやる」などと述べて退職届の提出をさせたという事案

(裁判所の判断)
「使用者の右懲成権の行使や告訴自体が権利の濫用と評すべき場合に,懲戒解雇処分や告訴のあり得べきことを告知し,そうなった場合の不利益を説いて退職届を提出させることは,労働者を畏怖させるに足りる強迫行為」に該当するとして,強迫取消しを認めた。

ネスレ日本[合意退職]事件 仮処分(上記水戸地裁龍ヶ崎支決平12.8.7)

(事案の概要)
原告は,平成5年10月に発生した工場における管理職に対する傷害事件(本事件)に関わったとして,平成8年3月に管理職から告訴されていたが,これを否認していたところ,検察官は平成11年12月末に不起訴処分とし,平成12年1月ないし3月に関係者にその旨を告知した。会社は,原告の不起訴処分決定後の5月17日,工場長に対し,本事件に関与した者の処分を検討中である旨連絡したところ,工場長は,人事総務課長ら同
席のもとに原告と面談し,会社本社において原告の処分を検討中であり,近々決定がなされる見込みである旨告げた上,家族のことも考えて正式処分決定前に自分自身で行動してはどうかと述べて暗に自己都合退職を促した。原告は,反発したが,退職願を作成提出し,同日工場長はこれを受領,承認した。ところが,翌日,原告が弁護士に相談したところ退職願を撤回するよう指示されたため,退職願を撤回する旨通知したが,会社がこれを拒否した。原告は,退職願の提出は強迫によるものとして取り消す等主張した。

(裁判所の判断)
工場長らが,会議室に呼び出した債権者に対し会社が近く暴力事件を理由に債権者を懲戒解雇を含む懲戒処分に及ぶことが確実であることを予告した上で,債権者が処分に不服であれば,会社は妥協しないため長期裁判となることは必至であるので,会社が処分をする前に自発的に行動することが賢明であるとして暗に早期に自己都合退職することを強く迫ったため,「これは自身の年齢や家族状況に照らして負担が大きいと畏怖して心理的に追い込まれた状態となり,これを避けるためには即時に自己退職に応ぜざるを得ないとして……退職願を作成し……たものと認め(られ,これは)工場長らの強迫によるものとして取り消し得る」ものと判示した。

ネスレ日本[合意退職]事件 本訴(水戸地裁龍ヶ崎支判平13.3.1)

(裁判所の判断)
工場長との面談時の状況について,自分の側から自己都合退職金の金額を尋ね,賞与・大入り袋・有給休暇・健康保険の取扱いに関して様々な質問や要望を述べ,退職の条件を確認し,上司に退職の挨拶をした後,退職願を自書した上で,駐車場に停めてあった自分の車の中から印鑑を持ち出して退職願に捺印しており,その後工場内の風呂に入り,私物を整理して帰宅したとの事実を認定し,さらに,原告は労働組合の役員経験が長く,長年,労使交渉に携わってきていることを考慮すると「原告の労働契約合意解約申込みの意思表示が強迫によりなされたとは認められないから,強迫取消しの主張は理由がない」と判示した。

ネスレ日本[合意退職]事件 控訴審(東京高判平13.9.12労判817.46)

(裁判所の判断)
「控訴人は,終始冷静に判断して行動しており,自宅において一晩過ごした後にも,なお自己都合による退職をする意思に何ら変わりがなかったものと推認されるものであって,控訴人が工場長の発言により,長怖し,絶望的な心理状態に陥って正常な判断能力を失い,本件退職願を提出するに至ったものとは,到底認められない」と判示し一審判断を是認した。

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